宮城 仙台 政宗公のなにくそと伊達 

河北新報(かほくしんぽう)。東北新報とか宮城日報ではなく河北?かほく?なぜ? 目が留まります。名前の由来は「白一山百文」。福島県白河市より北(東北地方)は山ひとつたかだか数千円の価値しかない。という意味です。戊辰戦争後、東北地方を蔑視する言葉として使われたとされ、それに対する反発から来ているそうです。負ケルカなにくそ根性です。

戊辰戦争で仙台藩は奥羽越列藩同盟の中心となって戦って敗れました。朝敵(賊)とされ、新政府側に徹底的にたたかれた会津藩(福島県)に比べて、仙台藩の新政府への恨みは会津藩ほどでもなかろうと思っていたのですが、ここ仙台の地で「河北新報」の成り立ちの言葉を知り、そうではなかったのだなと思いました。

仙台藩の最期を知って、藩祖である政宗公に興味を持ちました。なんと、彼の前半生はがけっぷちの日々の連続。「なにくその」精神は400年前の政宗公から始まったのではないか。と思うほどでした。
5歳頃 右目を失明。19歳 父親を拉致され亡くす。その後、周囲を7家の敵に包囲され絶体絶命に陥る。毎日が闘いの日々。24歳 秀吉に降伏。領国を最盛期の半分程度に減らされる。同年、弟を誅殺したとされる。34歳 関ヶ原の戦いで東軍の徳川側につく。

味方になる見返りとして、家康から100万石を与えるという話があったらしいが、結果、反故にされた。47歳 家臣の支倉常長を幕府の許可を得てローマへ派遣しました。外交と交易の為です。翌年に幕府はキリスト教を禁止、派遣は無に帰しました。思い通りにいかない人生。自分であれば、早々に折れて、ボロボロになっています。一体彼は、どんな人物だったのでしょうか?

政宗公本人の墓所には遺骨や副葬品が残っていました。その調査結果から本人がどういう人物であったかがわかっています。
・身長159.4cm(当時としては平均的)
・血液型B型
・面長で鼻筋が通り復元顔はかなりイケオジ
参考:瑞鳳殿ー仙台藩祖伊達政宗公が眠る霊屋
・骨格頑丈で筋肉質。高い運動能力を保持
・副葬品に文房具(筆まめ教養人だった)
・美意識高め(化粧をしていた)

政宗公の豊かな教養と美意識を示す逸話もあります。写真は伊達家の九曜紋です。政宗公が、細川忠興から無理を言って使用を許可してもらったデザインだといわれています。忠興は当時、デキル戦国武将の代表でした。当代一流の美のプロデューサーでもあった彼と交流があった事は、美でも後れを取りたくないという強い意思が想像できます。
 

さて、政宗公の後半生です。世の中が徳川氏の安泰で落ち着いてくると、彼は仙台城、及びその城下町の建設に心を砕くようになりました。現在の「杜の都」へつながる仙台の街の礎づくりです。
  入りそめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ
このあたりの地名は千代(せんだい)と呼ばれてきたが、私がここに腰をおちつけたからには千代(ちよ)の松と共に千年以上も豊かになっていくだろう
の和歌を政宗公は詠んでいます。

歌は水面のように平らかで、がけっぷちの日々から解放されたであろう心情がうかがえます。

 政宗が仙台の街をつくってから400年余り。市内には300年続く和菓子屋さんが今も残っています。
仙台駄菓子を売っている熊谷屋さん。「仙台駄菓子を手作りしているお店はここ一軒だけになってしまった」と紹介する地元のテレビ番組を見て訪れました。菓子職人さんが材料を煮て、練って、切り、形を整える。その手仕事の積み重ねを見ていると
 

このお店が300年続いてきた理由が少しわかるような気がしました。東京から来たことを伝えると、くるみゆべしを3つもおまけでつけてくれました。とってもおいしかったです。
(熊谷屋:https://kumagai-ya.co.jp/
写真はささやかな仙台のお土産。「萩の月」も「笹かま」もあったのに、すでに食べられていてこの写真には納まっていません。。