茨城県水戸市。水戸城二の丸に入る大手門前の橋の上から見下ろしています。自然の地形を生かして土塁や空堀で構成されている丘の上に建った城址です。少し前に、この水戸城址には「防御力高めの学校」があるということが話題になりました。謎の安心感(?!)からか、城址に建っている学校をそう呼ぶようです。水戸城内には、幼小中高と6つの学校と幼稚園があります。城址の曲輪内にある学校の数としては、ひょっとしたら日本一ではないでしょうか?
お城の中に学校があることは珍しい事ではなく、他の県でも例があります。新潟県上越市や、佐賀県佐賀市、滋賀県彦根市にもあります。明治の廃城令でその広い敷地は学校や公園、官公庁、駐屯地などに活かされてきたからです。もともと藩校があって、藩校から学校になった佐賀県の佐賀西高校の例もあります。水戸城址には、御本所とある場所に県立水戸一高と付属中学校。二の丸に県立水戸三高、水戸市立二中、茨城大学教育学部付属小学校に幼稚園。三の丸に水戸市立三の丸小学校と、あますことなく学校が建っています。
水戸京成ホテルを左手に見て、銀杏坂を上ってくると、正面に三の丸小学校があります。近世日本の教育遺産の4つのうちの一つにあげられる有名な藩校である弘道館のすぐ隣にあります。
水戸徳川家の二代目光圀(黄門様)は大変な学問好きでした。くだって九代目藩主、斉昭(最後の将軍徳川慶喜のお父さん)が二代光圀に敬意をもって、藩校の弘道館を建てています。教育について熱心な藩だったのでしょう。
二代目光圀が始めた歴史書づくりは、1657年から江戸期を通して、明治39年まで、約250年をかけて全402巻として完成しました。その功績については賛否ありますが、水戸学という、幕末の尊王攘夷思想(天皇を助け、外国勢力を打ち払おう)のもとになる考え方をつくりました。
親藩、徳川家でありながら、結果として討幕思想の卸元になってしまい、歴史の勉強をしていた学生時代に「え、なんで?」と水戸藩の矛盾ぶりに混乱したことを、これを書いていて思い出しました。討幕の思想的リーダーの立ち位置でありながら、藩内では改革派と保守派の派閥に別れ、身内同士で血で血を洗う争いが幕府が倒れた後も続き、この水戸城内でもドンパチがありました。幕末、水戸から人物がでなかったのは、この身内争いのせいで、人が絶えたからといわれています。
水戸に住む叔父のところに行って、聞いた話で驚いたことがあります。令和の時代の今でも、水戸のある地域では、「あそこは諸生党(保守派)だから・・うんたらかんたら」といった話がでるというのです。まるで、福島県の会津の人が鹿児島県の婿はもらうな。とか、青森県の八戸の人は旧藩領の岩手県に恋々としていて、津軽の人と馬があわない。など、酒席だけでの話なのか、ネタなのか。伝説のような話がまだ出ることにびっくりしました。
明治の世になり、水戸は争いが続く、難治の国とされました。その抑えとして、幕臣の山岡鉄舟が今でいう初代茨城県知事に就任しています。山岡鉄舟は当時188cm身長があったといわれる大男で、凄腕の剣客。やくざの親分とも意気投合しちゃい、最終的には明治天皇の教育係になり、最期は座禅したまま死んだという、要するにまぁ、すごい人です。敵側だった西郷隆盛に「金も名誉も命もいらないという鉄舟は始末に負えない」といわれたともいいます。その鉄舟は、台東区の谷中にある全生庵に眠っています。中曽根さんや安倍元総理が座禅で通われたというお寺です。鉄舟がそういう人物だったから通ったんでしょうね。
「藝於游」とあります。藩校の弘道館に掛かった九代藩主斉昭の言葉です。「芸に遊ぶ。学問、武芸を心に余裕をもって、楽しみながら学ぶ。マイルド文武両道」という意味だと、ボランティアをされている案内係のおじさんが教えてくれました。斉昭没後に水戸は荒れましたが、斉昭はそれを予見してこの言葉を残したのでは。と思ってしまいます。学問ばかりをして頭でっかちになり、議論をして、言い負かしては人の恨みを買うばかり。スポーツもして体も動かせ。と
現在城内に残る6つの学校の評判はわかりませんが、マイルド文武両道を行く学校であれば、泉下の斉昭も報われるな。と思いました。