2024年10月13日(日)スナック不慣れ・10月14日(月祝日)もちつきにいらして頂いたみなみなさま。どうもありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願い致します。

鹿児島 向田邦子嫁入りの地

「おいしい」

向かいに座った娘は、ひょいひょいとすぐに2本平らげて、そう言った。向田さんの一家もよく訪れたという、磯浜の平田ぢゃんぼ。付け合わせのツボ漬けもこのお餅にとてもあう。膝立ちで座る畳の座敷から目に入る群青色の錦江湾。その向こうに噴煙を吐く赤い桜島。車の運転がなければ、ビールを頼みたかったぁ。

いつからだったか、なぜだったか。娘を寝かしつけるために向田さんの本を読み聞かせしてきました。クスクス笑うことはあっても、盛りあがりすぎることがなく、確実に寝かしつけることが出来てきたこともあり、自分と娘のあいだでは鉄板の寝かしつけ本でした。

向田さんは東京の人です。小さい頃はお父さんが転勤族だったこともあり全国を転々としていますが、世田谷の若林で生まれ 目黒 赤坂 六本木 南青山という場所で生活をしてきた人です。そんな向田さんが小学校3年生から5年生までの2年あまりを過ごした鹿児島をなつかしい故郷もどきと語っています。

「私の原点。というと大袈裟だが、もとのところをたどって見ると、鹿児島で過ごした3年間に行き当たる。春霞に包まれてぼんやりと眠っていた女の子が、目を覚まし始めた時期なのだろう」(父の詫び状 薩摩揚から引用)

向田さんが平之町の社宅から通った山下小学校。夏休みの時期だったので、子供たちの姿は見えません。校門の横に校訓を記した横断幕があります。読んでびっくり。鹿児島らしいなぁ。と思います。「負けるな。嘘を言うな。弱いものをいじめるな。」東京だったら「元気にあいさつしましょう!自分のことは自分でやりましょう!」ぐらいじゃないかな。と想像をしました。

向田さんは2年余り(しかも80年以上も前の戦前!)しか鹿児島にいなかったのに、今でもずいぶんと大切にされているんだなと感じます。学校から歩道側に向けてこんな掲示板がありました。向田邦子賞受賞作文。各学年で受賞した生徒たちの作文が掲示されています。

せんせいから、向田さんらしい文章の書き方のコツとして教えてもらったものなのかどうかわかりませんが、みんな最初の出だしは会話文からです。この子の作文いいなぁ。と掲示板の前でしばし棒立ち

向田さんが航空機事故で51歳の若さで亡くなったあと、存命だったお母さんが、邦子が慕っていた鹿児島に嫁入りさせようと言って、生前の多くのものをかごしま近代文学館に寄贈されました。向田さんのエッセイの題材となったものが寄木細工のように詰まっている場所です。その文学館に行ったら、なんと定休日。いつかまた鹿児島へ行くきっかけが出来ました。


「変わらないのものは人。そして生きて火を吐く桜島であった。」

亡くなる2年前に念願だった鹿児島に40年ぶりに帰郷されています。その様子は 「眠る盃」の「鹿児島感傷旅行」に収められています。

「なつかしいような、かなしいような、おかしいような、奇妙なものがこみあげてきた。私は、桜島を母に見せたいと思った。」