上野駅前通りに建つ上野ABAB。若者のファッションを引っ張ってきたテナントビルがこの6月で閉店しました。閉店の案内によると「建物の老朽化対応並びに耐震措置」等のためという含みのある文言でした。建て替えではなく耐震工事をして建物を残す。とも読めます。今後どのようになるのか お聞きした店長さんによると、閉店後は取り壊して新たに建て替えますが、しばらくお時間をいただきます。わたくし共で運営の予定ですが、どのような業態になるかはまだ決まっておりません。とのことでした。
上野ABABは株式会社アブアブ赤札堂が都内で唯一運営するファッション専門部門でした。ほかにスーパーマーケット部門として、都内に7店。主に城東地域に展開してます。終戦の年の昭和20年、上野がまだノガミと言われていた混乱期に東京深川にあった家業の衣料店を創業者である小泉一兵衛が継いで、最初は木造の店舗から、この上野の地で成長させてきました。
日立製の丸ボディといわれる古いタイプのエスカレーター。元が昭和39年から変わっていないとすると60年近く修理をしながら使い続けてきたことになります。足元から手摺にかけて、ガラスが湾曲して広がっているのでゆとりを感じます。素敵なデザインです。効率とかメンテナンス性を考えると、このようなデザインにはもうならないような気がします。階によっては故障で止まっていて、閉店も間近なことから修理をして復旧させることもなかったようですが、他の階をつなぐ現役機はキューキューと音を鳴らしながらもがんばって稼働していました。
昔の古いデパート等にはよく見られた配置の仕方ですが、階段の踊り場にお手洗いがあります。2階階段の踊り場にに男性用、3階階段の踊り場に女性用といった具合です。近年はバリアフリーの考え方からこのタイプのトイレを持つ建物は減る一方です。 館内を縦につなぐエレベーターがわかりづらく、目立たない場所にあり、カゴが狭いのも、この建物が古くから建っていることの証だとも思いました。
昭和20年から78年といいますが、この上野広小路という場所がどういう変遷をたどってきたのか興味を持ちました。
上野は寛永寺の門前町として江戸時代から栄えてきました。3代徳川家光の命で寛永寺が建てられてからです。1657年の明暦の大火の後、防火のための空き地として、下谷広小路、今の上野広小路ができました。そこに茶屋などが並び、繁華街として成長してきたそうです。ABAB赤札堂がある場所は都電(路面電車)も交差する場所で広小路での一等地だったことがわかります。【原書房 江戸東京街の履歴書2 浅草・上野・谷中あたり 班目文雄著 引用作図】
上野広小路を松坂屋本館を背にして、上野の山方面を見た写真。昭和26年当時はまだ都電が走っていました。宮崎駿監督の「風立ちぬ」の冒頭で関東大震災の様子を描写したシーンがあります。逃げ惑う人々が行き交う上野広小路の都電のシーンです。絵は忠実に当時の様子を再現したと思われるのでそれだけ当時の資料が残っているということでしょう。上野広小路が上野の顔であり、一番の目抜き通りでした。路面電車がY字に交わる交差点の正面がABAB赤札堂が建っている場所になります。【上野公園とその周辺 目で見る百年の歩み から写真引用】
上野広小路を上野の山を背にして、松坂屋本館方面を見た写真。左上にABABの看板が見えます。今から約50年前の上野広小路。歩行者天国にあふれる人々。今の上野では望めないような人出です。この頃のABAB赤札堂は上野公園の発展に尽くしてきた人に対しての協賛金として、松坂屋、京成電鉄に次いで、3番目に多くの額を寄付しています。それだけ、当時のABAB赤札堂が、上野の顔であり、力があったという事なのでしょう。【上野公園とその周辺 目で見る百年の歩み から写真引用】
78年前。戦争でゼロから。そこから成長を遂げてきたノガミ(上野)を見続けてきたABABです。50年前にはあんなに人々がたくさんいたのに、何の不安もなさそうで上り調子の時代だったのに、50年後の今は人口減少、少子高齢化社会といわれ、店頭であまり物を買わなくなったとも言われています。3年、10年でも商売を続けることは難しいと言われる中で、50年以上商売を続けていることはすごい事です。そう遠くない将来、ABABがどんな姿で生まれ変わるのか楽しみです。
2024年6月30日 閉店の日。ABABの最期を見届けようと集まってきた人々。10時半の開店前にすでにお店は開けられ、責任者の店長さんがはっぴ姿でお客さんを迎えておられました